プロフィール

ドイツのオペラで17年弾き、人の情感を伝える音楽を学びました。演奏を通じて、私の辿ってきた人生の片鱗が見えるようであれば、私が音楽に追い求めたものに少しでも近づけていることになります。

多様な情感を表現するために、音色の変化を追い求めています。音色の変化は、弓のスピードやヴィブラートの緩急で工夫するとともに、愛用の名器ガスパロ・ダ・サロがもたらしてくれます。これだけ多彩な音色をもつヴァイオリンは、ストラドやデルジェスと比べても、他にありません。ガスパロ・ダ・サロとの出会いが、私のソリスト人生を変えてくれました。

長谷川紘一(はせがわ ひろかず)

1942年生まれ。大阪フィルハーモニーの初代コンマスであり、国際コンクール受賞者を多数輩出し優れた指導者であった父・長谷川孝一に6歳からヴァイオリンの手ほどきを受ける。その後、鷲見三朗、卯束たつお、シュタフォンハーゲン、マルティン・バウエルトなどに師事。「毎日学生音楽コンクール」西日本優勝(中1)、「毎日新人推薦コンサート」に出演(高1)。

 

1965年にドイツに渡り、ブレーメン国立フィルハーモニー、1968年ハンブルガー・シンフォニカ(第2コンマス)、1969年ダームシュタット・オペラ(コンマス)、1970年フランクフルト・オペラなどを歴任。1982年に帰国し、大阪フィルハーモニー交響楽団にてトップサイド奏者。2000年に退団し、以後、聴き手と楽器の距離を縮めるミニ・コンサートを行う。「長谷川紘一後援会」に支えられながら、ホームコンサートや病院などで演奏する。現在、宝塚ミュージックリサーチ・ヴァイオリン科アドバイザー。父に続き、優れた指導者でありたいと献身的に指導をしている。

 

 

ヴァイオリンの持つ音色に強く拘り、これまでストラディヴァリウス2台、デル・ジェス、アンドレア・ガルネリなどを弾くも、現在所蔵のガスパロ・ダ・サロ(1600年)の持つ多彩な音色に優る楽器はないと信じ、多くの人にその豊かな音色を聴かせたいと想い演奏活動を続けている。

 

 

 


ガスパロ・ダ・サロ

 

 

Gasparo da Salò (1542-1609)は現在のヴァイオリンの原型を作ったと言われるブレッシア派のヴァイオリン製作者。優れたヴィオラが有名。

 

ストラディヴァリウス(1644-1737)の音の透明感と、自らをイエスの申し子と名乗り同様に名工であるデル・ジェス(本名:ジュゼッペ・ガルネリ; 1698-1744)のパワーある音を併せもち、かつ多彩な音色を持つことに特色がある。



長谷川孝一(1911-1992)

1911年5月6日、静岡に生まれる。

高校時バイオリンを始め、カール・フレッシュの直弟子であったモギレフスキー氏およびクレーン氏に師事。高校卒業後の大阪BK(今のNHK)、宝塚交響楽団を経て、1947年、指揮者朝比奈隆氏に請われて関西交響楽団、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の初代コンサートマスターとして就任。1957年関西交響楽団を退団。後進の指導に専念。

 

ほどなくして大阪音楽大学のバイオリン科の教授として迎えられる。同時に神戸女学院音楽科バイオリン部門の教授を兼任。多数の国際コンクール受賞者を輩出。日本弦楽指導者協会理事長に就任し、その後名誉会長となる。

 

1967年ブレーメンコンゼルバトワール、モスクワ音楽院、パリ音楽院、ジュリアードなどから招待され意見交換の為、訪問。ダヴィット・オイストラフ、レオニード・コーガン、アイザック・スターン、ユーディー・メニューインなど、世界的に著名なバイオリニストと交流し意見交換の為、数年に一度訪問。

 

著書に「バッハに関する私のノート」がある。


私の父の思い出


父とパリ音楽院の院長であったヴィンヨン先生

我が家にあった写真。左から順に、オイストラフ、スターン、メニューイン。そうそうたる顔ぶれです。

息子の私が言うのも気が引けますが、父は本当に偉大な指導者でした。また生徒にあれだけ慕われた先生は、なかなか居ないでしょう。

 

そんな偉大な父ですが、若かりしころは相当なやんちゃだったらしく、よく倉に閉じ込められたそうです。倉は薄暗く、等身大の浄瑠璃人形がおいてあり、気味悪くて何とか抜け出したいと思って、倉の格子が緩んでるのを幸い格子をはずして抜け出し、頃合いを見計らって元に戻し、何食わぬ顔で親の許しを待っていたそうです。

私の祖父は作り方酒屋で、甘味処もあわせて開いていたそうで、お菓子などの貰い物も多かったそうです。父は9人兄弟だったこともあり、親がお菓子を隠し、他の兄弟は見付けられないのに、父だけはどこに隠しても見つけて、食べてしまったそうです。以来「ネズミ小僧」というあだ名をつけられたとか。

 

父のバイオリンとの出会いは、祖母の話によると、東京にコンサートを聴きに行ったのがきかっけで、どうしてもバイオリニストになりたいと思ったらしいです。当時はバイオリンを弾く人が少なく、倉で練習していると、倉の前は人だかりだったそうです。そんな様子を見て、親が「そんなに好きなら、ちゃんと先生について習った方が良い」と言うことで、カール・フレッシュの直弟子で当時、日本にいたモギレフスキー先生やクレーン先生に習う事になったんだそうです。

 

父がバイオリンを教えるようになって、私もバイオリンを習いたいと言ったみたいで、父からバイオリンの手ほどきを受けたのですが、親子ですので、お互いわがままがでて、私は父が何か注意するとすぐむくれてしまうし、父は父で、「いつでもみれる」とか言って、決まった時間を作らない。私が練習していると、通りすがりに、「そこちがってるぞ」と言い残して、二階にレッスンに行ってしまう。私が戸を開けた時には、もういない。後で、「さっきそこちがってるぞって言ってたけど、どこがどう違ってたの?」ってきいたら、「そんなこと言ったか?」ですよ。

 

又ドイツ語にツェルシュトロイター・プロフェッサーというのがあります。ツェルシュトリトというのは、散らかっているという意味で、ちょっと頭がチグハグな感じの教授のことを言います。父はそのような風でした。

 

家ではピアノ伴奏つきのレッスンでしたので、ピアニストに食事を出してたのですが、父が隣に座ったピアニストのおかずを食べていたり、卵と間違って時計を味噌汁に入れてしまったりでした。また父が、ドイツに留学中の私がを訪ねて来た時の事、いざ次の訪問先に行く時間になって、「パスポートがない」って騒ぐんです。散々探し回って、結局、手帳に挟んでいたのです。ある時はコンタクトがないって大騒ぎ。家中じゅうたんをはがしたりで大変。そんななか、父も一緒に探してるではありませんか。従兄に、「伯父さん見えてるの?」って聞かれてやっと、自分がコンタクトレンズを入れている事に気づいたり。

  

教授というと偉そうにしてるように思われ勝ちですが、そんな人間的な一面も持った父でした。私も晩年になってやっと、演奏面では父を超えられたかな、と思えるようになりましたが、指導者としては未だに、父の足元にも及びません。いつか父のような指導者になれるように頑張ってはいるのですが。